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EducationとJudaism

2011年09月16日 14:13:00
EducationはJewishにとり最も重要な義務である。

誰が誰をEducateするのか。

基本的には父がその子供達をEducateする。

何をEducateするのか。Jewish Conceptである。

このことは父親の重要な義務であるとされ、朝に夜に昼に、家に居ても外に居ても子供を教育する義務があるとされている。(Deuteronomy第6章第7節)

またProverbsでは「子供達よ、よく聞け。父の教えを守れ。父から教えてもらったことをしっかり頭に刻み込め。そしてWisdomを、そして物事をしっかり見る目を付けよ。」(物事をしっかり見る目を英語では「Insight」と言う。)(Proverbs第4章第1節から5節)

この父が子供に教えるということが義務化されたのは紀元前1世紀頃Sanhedrinの長官であったSimeon ben Shetahの努力によるとされている。彼が基本的には父の子供に対する教育を一般化させるために小学校の開設を提唱し実際にそれを行った。そしてこの小学校のSystemはJerusalemから全国へと広がっていった。(ちなみに、日本での小学校の義務化は明治になってから)

父による教育は、父が居ない場合には子供に為されない。特にJewish Conceptの教育が重要とされるが、父が居ない子供のためにはやはり小学校が必要とされたのである。これが Joshue ben Gamala紀元一世紀頃のJudaismの高僧の考えであり、これが小学校教育を更に強化することとなった。父が家庭で子供を教える他に小学校に子供を連れて来るように指示したのである。そして、このJoshue ben Gamalaは更に小学校教育を強化するためにJewishの各村、各都市に少なくとも一つの小学校を作り、6歳からの入学を要請した。(Bava Bathra 21-a)

またTalmudに於いても教育の重要性は至るところに謳われている。

例えば、Psalm 105:15では「子供の小学校教育に於いてこそ未来の希望が与えられる。小学校教育のない村は滅びるであろう。Jerusalemが崩壊させられたのも教育が崩壊したからである。」

しかもBereshith Rabbah 65:15によれば、Jewishを攻めようとする者が居ても子供達に対する小学校教育がある限りそれは無駄に終わるであろう、とまで言われている。

そして教師の資格としては何よりも忍耐、Patienceが重要であるとされる。「忍耐のない教師、すぐにいらいらする教師は教師たり得ない。辞めるべきである。」と書かれている。この基準からすれば、日本の教師の一部は「辞めるべきである」ということになる。.

(Avoth第2章第6節)教師が子供を馬鹿にしたりぞんざいに扱ったりする対応が最もいけないとされ、父親以上に教師の方が重要な役割を担うとされている。この基準から言えば、日本の教師は怒鳴ったり子供を馬鹿にしたりとひどい状況がないわけではない。やはり「辞めるべきである」ということになる。

実際Shevuoth 5-aによれば、このようにも書かれているぐらいである。

「もし小学校教育を受けていない者を見つけるということはJewishの村に於いて可能であろうか。そう可能だ。もしその子が誰かに誘拐されてJewishでない家庭で育てられたら。」

言うまでもなく、このJewishの教育とは日本のような受験技術教育ではない。受験技術教育は人格教育ではないからである。受験技術教育は道徳教育ではないからである。受験技術教育は人生に於いて最も重要とされる哲学、宗教、一般教養を教える教育ではないからである。

日本人は小学生から受験技術教育をやっている。ひどい親は幼稚園生から受験技術教育をやっている。Talmudにあるように、このような国は滅びるのである。

もう一度言う。Jewishに於ける教育とはJudaismの教育である。それはJewish Conceptの教育。つまり4000年の歴史を持つJewishの歴史、JewishのWisdom、JewishのConcept、Jewishの道徳律の教育である。この考え方が西洋に於けるLiberal Arts教育に繋がっていったのである。

日本にはLiberal Arts教育は存在しない。受験技術教育だけである。そして暗記教育だけである。このような教育はJewishでは教育とは言わない。

Judaismにとって、そしてJewishにとってHebrew Bible及びその後のRabbi達の研究成果を勉強することは最も重要な日常生活の一部をなしているので、Judaismの学校は土日も休むことなく開かれ、しかも夜も遅くまで開いているのを旨としている。

Classroomは25人制とし、25人を超えるような生徒数になる場合には必ず補助の先生を付けることを旨としている。

教室の机の並べ方は円形を旨とし、日本の小学校や中学で見られるように生徒が一方向を向いて黒板に向かっているというような並び方はしない。

Judaismの教育の目的は、12世紀のSefer Hasidimによると、宗教及び倫理の教育を主目的とすると書かれている。そして次のように言う。

「子供は両親のCopyである。もし両親がDishonestすなわち正直でないならば子供もそうなる。Moses五書の勉強を子供がしたとしても、親が子供に過大な小遣いを与えたり金を与えたりすると、その勉強の成果が邪魔されることになり兼ねない。子供に与える金は出来るだけ少なくするべきである。もし子供があることの勉強に興味を示すならば、そのことを集中して教えるべきである。例えば、ある子供がHebrew Bibleの勉強に興味を示すならば、他の科目であるTalmudのことを教えるべきではない。無理矢理教えてはいけない。もし子供が勉強に躓いている場合には他の子供が居る前でその子供に色々と手助けをしたりしてはいけない。教師は他の子供が帰った後にその子供に特別の補講をするべきである。そうしないとその子供は他の子供に馬鹿にされることになる。」

と書いている。日本の教師は他の生徒の前で出来ない子供をどう扱っているか、想像に難くない。

「鈍重な子供が居てもあまり無理矢理教えてはいけない。他の子供と同じように進歩がなくても、そういう子供も少しずつ進歩をする。そういう子供にはお菓子を与えるなどして勉強に興味を持たせるようにするべきである。」
宗教教育と倫理教育にはいくら金をかけても構わない。それはそのような教育をすることが両親の、そしてJewish社会の一番重要な努めであるからである、とHebrew ScholarのRabbi Israel Al-Nakawaはその本「Menorath Hammaor」で述べている。

Talmud、Megillah 28-bによると、Judaismの考え方についてこれを毎日教えられる者は将来の安寧が保証されると教えられている。そして同じくTalmudのBera’hothの終わりでは、預言者Isaiahが次のように言っているとRabbi ElazarがRabbi Haninaの言葉を引用している。

「全ての子供が神について勉強する時その子供達には平和が訪れる。このことは 今の子供達だけに当てはまるものではない。全ての将来の子供達に当てはまる。平和というものは町の中にあり、そして安寧は人々の住居の中にある。その為には子供の子供、またその子供に十分な教育を施さなくてはならない。」

教育の重要性については12世紀のRabbi Judah ibn Tibbonは次のように自分の息子に語りかけている。

「息子よ、常に書籍を自分の友とせよ。そして自分の書棚こそをお前の財産とせよ。最も重要なものは金貨ではない。書籍である。そして、その書棚の書籍を時には新しい書物で埋めていかなくてはならない。そして書棚は常に順序良く本を並べておかなくてはならない。必要な本がすぐに取り出せるように。そして本を人に貸し与えることを躊躇してはならない。お前の教師を尊敬せよ。」

Jewishの父親というものは自分の生活を切り詰めてもその子供達に十分な教育を施そうとするものである。そして女の子には将来妻となり母となる教育を十分施さなくてはならない。そして特に女の子だからといって倫理、道徳を教えることを怠ってはならない、と言われている。(Talmud、Kethubboth 68-a)

12世紀のJoseph ibn Akninは教師が教える科目について十分な知識と経験を得るように、教師こそ研鑽に努めなくてはならないと述べている。そして生徒を教師はその人生の中心に置かなくてはならないと言っている。(果たして日本にそのような教師がいるのか疑わしい。・・・・Ishizumi Kanjiの思い)

そして、更にこのように続く。教師は全ての生徒をあたかも自分の子供のように思わなくてはならない。教師の何よりも重要なことは道徳律、宗教、哲学といった基本的な倫理で生徒を導くことである。教師は特に忍耐を持たなくてはならない。忍耐のない教師は失格である。

日本の教師達はこの12世紀のJewishの言葉を知るべきであった。日本の一部の教師達は忍耐を持っていないとIshizumi Kanjiは見る。日本の一部の教師達は子供をあたかも自分の子供のように扱っていないとIshizumi Kanjiは見る。

以上