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日本では何故Liberal Arts教育が出来ないのか (その9)

2012年07月04日 01:32:00
最近私はある所でアメリカのボーディング・スクール教育についての講演をした。その中で出された質問が興味深い質問であったので、ここでご紹介したい。

質問:石角先生はアメリカのボーディング・スクールで知識教育、いわゆる知識の暗記教育はあまりしていないと書いておられるが、しっかりした知識があってこそのCritical Thinking、すなわち批判的思考能力が身 に付くのではないのか?

石角完爾の答え

確かにアメリカのボーディング・スクールでは知識教育に重点を置いていないし、期末試験でも知識を試すような試験問題が出されることはない。常に創造的思考、批判的Critical Thinkingの問題が出る。例えばアメリカの中学校で日本史を教えているが、日本史の授業で出された具体的な問題は、試験室に入ると日本史の先生が待っている。いきなり三島由紀夫と河上肇の書いた小論文を渡される。それを生徒が5分間読むことを要求される。5分経つと「はい、止め」と言われて、そこから日本の右翼思想と社会主義思想についての先生からの矢継ぎ早の質問が発せられる。約15分間の口述試験である。これがアメリカの中学のボーディング・スクールの日本史の授業でアメリカ人に対し行なわれた実例である。さて、この試験では全く知識を試していないことは明らかである。別に三島由紀夫がどういう人物で河上肇がどういう人物かということを予め知っている必要もない。その場で渡されたものを読み、それについて先生との口述試問を受けるからである。

アメリカのボーディング・スクールではインターネット時代に突入したことのパラダイム・シフトを正確にとらえている。パラダイム・シフトとは、「ほぼ全てと言って良いほどの膨大な世界の情報が今は瞬時のネット検索が可能になった。」ということである。これはほんの数年前までは予想だにしなかったことである。アメリカの膨大な国立議会図書館、日本の国会図書館、その他の政府関係資料や学術論文等々々は一瞬の間にネット検索が可能になっている。

このパラダイム・シフトの状況を正確に捉えないと日本の教育は完全にObsoleteなものになってしまう恐れがある。例えば、大化の改新が何年で聖徳太子の17条の憲法が何年に作られたということを忘れてしまっても一瞬の間にネット検索で出て来る。つまり、知識は今やネットという頭脳にアクセスしてGet出来る時代になった。このような時代変革が起こってしまった後に於いては知識教育の意味というのは極めてMinimizeされて来ている。暗記教育は恐らく世界の博物館でしか見られない過去の遺物となっていると考えて良い。

さすれば、日本の中等教育に於いて必要なのは生徒に創造的思考及び批判的思索、すなわちCreative Thinking、Critical Thinkingを植え付ける教育である。

さて、Critical Thinking、Creative Thinkingの教育は具体的にどうやるか? まず第一に、授業は出来るだけ少人数にし、ソクラテック・メソッド、ハークネス・メソッド、ヘブルタ方式でやるべきである。そうでなければCritical Thinking、Creative Thinkingは育たない。ソクラテック・メソッドはHarvard Law Schoolで開発された教授と生徒との質疑応答方式というものである。ケース・メソッドとはHarvard Business Schoolで開発されたCase Bookを予め生徒に読ませ授業は質疑応答で行なうというやり方である。ハークネス・メソッドとは、アメリカのボーディング・スクールで採用している円陣に生徒と先生がなり、生徒同士、先生と生徒の質疑応答、討論方式である。ヘブルタ方式とはユダヤが世界史上初めて4000年前に義務教育を導入した時から採用されているユダヤの教育方式で、生徒が1対1の2人ずつのグループになり、その生徒同士が1対1で与えられた課題につき1日中討論をする。その間先生たるラバイは僅かにアドバイスをするだけである。

ではなぜ討論方式でないとCreative Thinking、Critical Thinkingの教育が出来ないのか? 討論こそCreativityの母であるからである。議論こそCritical Thinkingの苗代であるからである。例えば、Creative Thinking、Critical Thinkingの教育現場を日本史の授業を再現しながらやってみよう。

先生:「聖徳太子の17条の憲法は知っているか?」

生徒:「はい、知っています。」

先生:「そこにはどんなことが書かれているか知っているか? 知っている者は2、3言ってくれないか。」

生徒:「先生、その前に質問があります。17条の憲法は本当に聖徳太子が書いたのですか?」

先生:「おお、なかなか良い質問だ。誰か他に17条の憲法は聖徳太子が書いたということについてサポート出来る情報を知っている人間はいるか?」

生徒:「そもそも17条の憲法というものは聖徳太子が書いた直筆のものが現存するのですか?」

先生:「それもいい質問だ。さあ、現存するかどうか皆で調査してみよう。早速パソコンを開いてネットで検索してみよう。」

生徒:「ネットで検索した限り、17条の憲法が現存するかどうかについては定かではありませんが、あるネットでは17条の憲法は直筆のものは現存しない、と書かれています。」

先生:「なるほど、そうすると17条の憲法は聖徳太子が書いたかどうかについてまず我々は検証するべきだと思うが、どう思う?」

生徒:「その通りです。仮に現存していてもそれが聖徳太子の直筆かどうかが分からないと思います。何故なら筆跡鑑定などが出来ないからです。そのうえ、現存していないとなると17条の憲法を聖徳太子が書いたかどうかというのは過去の史料に基づいて判定する以外にない訳ですが、そうなるとこの点が大議論になるべきだと思います。」

先生:「その通りだ。一つだけ先生からコメントしておく必要がある。それは、歴史というのは多くの場合後世の歴史家によって書かれているということだ。それが史実かどうかは君達が自分の手で史料を集めて自分で考えなければいけない問題だ。よし、それでは今日は17条の憲法は本当に聖徳太子が書いたのかどうかを、君達が図書館に行って徹底的に調査をし、それを持ち寄って次回議論することにしよう。今日はここまで。」

以上がCritical Thinkingを育成する授業方式の一つのサンプルとして石角完爾が創作したものである。

皆さん、考えてみてもらいたい。コペルニクスの地動説は、当時天動説が知識の常識だと言われていた時代にその知識の常識に根本的に挑戦したものである。しかも命がけで挑戦した。ダーウィンの進化論は生物が進化するという理論であるが、生物学上の大理論だと言われている。しかし、そのダーウィンの進化論も当時の常識、すなわち、「あらゆる生物は神が創られたものであり、それが形を変え進化して行くということはない。一つ一つの生物は神が創られたものであり固定的なものである。」という創造論の常識に挑戦したものである。すなわち、科学や哲学はその当時の知識の常識に挑戦してこそ初めて生まれるのである。このことを学校教育現場で教えなければならない。いかにして知識の常識に挑戦するか。まず知識の常識に挑戦する勇気を教えることである。その為にはまず教師が範を示さなければならない。教科書に書かれてあることが「本当か?」と疑うことである。その疑問へと教師が率先して引率しなければならない。ユダヤではヘブライ聖書に書かれていることすら疑うことを教えるのである。ユダヤでは神が存在するかということ自体を大命題として問いかけているのである。このユダヤ思想が根底に受け継がれ、コペルニクスやダーウィンに繋がっているのである。

この討論型の授業に日本の先生方も生徒も全く慣れていないということの実例を2つお話ししよう。一つは、私の友人がStanford大学のBusiness SchoolのProfessorをしている。そのProfessorの話である。彼のクラスはアメリカ人6割、その他は世界各国からの留学生である。留学生はインド、中国、その他アジア諸国から来ている。そのProfessorがこのように言っている。

「Kanji、日本からの留学生はいつも僕は成績をCかDを付けざるを得ないんだよ。CかDというのは落第寸前の成績なのだが、どうしても日本人にはこの成績以外は付けられない。何故かと言うと、クラスルームでの発言が全くないか、あっても教科書に書いてあることしか発言しないんだよ。これに対して中国人やインド人は独創的な自己の意見をクラスルームでどんどん主張してくる。必然的に教授の私としてもインド人や中国人を当てるようになってしまう。知っての通り、Business Schoolではクラスでの発言が成績の半分以上を占める。だから日本人はクラスでの発言がありきたりかほとんどないので、常に最下位の成績を付けざるを得ない。」

このStanford大学Business Schoolの私の友人のProfessorのコメントは、私自身の経験から照らしても正しいと思う。具体的な大学名を挙げると差し障りがあるので言わないが、私はある日本の超有名大学の授業に教授の補佐として参加した。その時の光景を再現しよう。

教授が教室に向かって、「さて、宇宙はどのようにして創造されたかを知っている者はいるか?」

教室。シーン。誰一人手を挙げない。教授が堪りかねて「それではヒントを与えよう。ホーキング博士のビッグバン理論というのを知っているだろう。それを説明できる者はいるか?」

教室。シーン。誰も手を挙げない。そこでこの教授は思わず「アメリカの大学で同じ質問をすると全員が手を挙げるぞ。一体君達はどうしたというのか。知らない訳はないだろう。何故発言しないのか。」と逆に発言しないことの理由を質問した。

教室。シーン。そこで教授は呆れて「今日の授業はここまでにしておこう。君達は次の講義で必ず発言するように。もう一度言っておく。必ず発言するように。」

ユダヤでは宇宙創造のまず最初に神の言葉があった。神は言葉で宇宙を創造された、とヘブライ聖書に書かれてある。言葉が宇宙を創造したのである。いかに言葉が重要であるかはユダヤ民族が一番良く知るところである。言葉はすなわち発言である。発言が思考を発育させる。発言なきところに思考の探求はない。発言しない者の頭脳は停止している。だからユダヤでは常にしゃべる。しゃべってしゃべってしゃべりまくる。また、常に立ったり座ったりする。それがユダヤの学びの姿勢である。そして声を出して本を読む。本を読む時も身体を小刻みに震わせたりする。すなわち、あらゆる五感を使い思考に集中する。声を出す、身体を動かす、グルグル歩き回る。無論本を読む姿勢はそのままである。日本のように一方的に教師のしゃべるのを聞いていると、私の経験では、頭脳活動が停止し眠くなる。